大将軍代理の条件
こんなこと習っていなかったよ。
教えてもらえなかったこと知ると少し得した気分ですね。
寿永3年(1184年)1月、宇治・瀬田の戦いに参戦。尾張墨俣渡にて御家人らと先陣争いで乱闘になったのが頼朝の耳に届き、頼朝は激怒したと言われている。1月20日、範頼は大手軍を率いて瀬田、義経は宇治を強襲。義経の独断の奇襲と言われているが範頼軍は広く展開し、ゆっくりとした進軍をしている事から、戦上手の今井兼平率いる500余騎を引きつけるためと思われる。また範頼軍も強襲をすると、進軍の大義名分である源義仲が西方面に逃亡の危険性があり、なにより京都には3万の兵士をまかなえるだけの食糧もなかった。義経の京都強襲が成功すると義仲は今井兼平と合流し、北陸に逃亡をはかるが、事前に察知していた範頼軍は展開していた兵士で追跡し、武田軍により義仲を討伐する。『平家物語』では義経が先に後白河法皇の御所に駆け付け、名乗りを上げる場面で「範頼は未だ参らず」という台詞があるが、『吾妻鏡』では範頼と義経は共に院の御所に参上している。
寿永3年(1184年)2月5日、一ノ谷の戦いに参戦。源範頼は兵を率いて進軍(宇治川の戦いで率いた3万の兵士と思われる)。また源義経も1万の搦手軍を率いて進軍。両軍のあまりにも違いすぎる兵数からみて、すでに挟撃による作戦は決定していたと思われる。圧倒的な兵力に関わらず強固の守りを発揮する平家側の後方を回り込む義経を援護するように正面攻撃をする範頼軍。これにより平家側は裏側の守備兵を正面の範頼軍にあたらせた。7日に義経の裏手による奇襲にて終結し、平家を海上に追いやって大勝する。義経の評価はいっそう高まった。しかし諫言で有名な梶原景時や、畠山重忠などの勇将を統率する範頼の手腕は凡将という言葉では説明できない。
3月、範頼は上洛の際の乱闘騒ぎの咎で謹慎させられ、何度も嘆きわびてようやく許されている。
6月、範頼は戦功により三河守に任じられる。この守は名義上のものではなく建久4(1193年)8月の失脚に至るまで最高責任者として同国を支配した。現在も三河の地には範頼の名で建設された寺が存在し、政治においても高い能力を持っていたと思われる。しかし頼朝は、武功を立てしきりと任官を願っていた義経には褒美をあたえなかった。範頼は自分が先に任官した事を喜んでいる。そのためか義経は後白河法皇から左衛門少尉と検非違使少尉の任官を受け、頼朝はこれに激怒して義経を平家追討軍から外した。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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